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セミコンジャパンの昔話

2016.12.28(Wed)

営業

弊社ウェブサイトをご覧の皆様、今年1年ありがとうございました。
本年最後のコラム更新を、
前回のSWWJに続き、またまた営業の富永がつづらせて頂きます。

今月は、
先月に続き半導体業界における国内最大の展示会であるセミコンジャパンが
開催されました。今年は記念すべき40回目の開催でした。
長年この業界に携わってきたうちの一人としては、感無量です。

原点は『晴海』

今年のセミコンジャパンには
「SEMICON HISTORICAL PATH」と称して、
セミコンジャパンが始まった1977年から毎年の会場写真を展示しているコーナーがありました。思い起こせば、
私が初めてセミコンジャパンを訪れたのは80年代の
前半でした。当時は晴海の東京国際見本市会場(通称:晴海)で開催していました。若い方は晴海と言われてもイメージが
湧かない事でしょう。幕張メッセが出来るまでは、
日本の大きな展示会はすべて『晴海』で行われていました。
そして当時の半導体業界は、ハイテク日本の最先端の象徴であり、すべてが新鮮でした。


70年代までは、半導体は米国主導の産業であり、
半導体チップもその製造装置もすべて米国製でした。
80年代になり日本のDRAMメーカーが世界を席巻し始め、
時同じくして日本の装置メーカーも一部のプロセスでは
米国メーカーを凌駕し始めました。
その象徴がセミコンジャパンだった様な気がします。
しかも時代はバブルへ向かってまっしぐらです。
当時のセミコンショーでは、装置メーカー各社は製造装置の実機を会場に運び込んで、実際にウェハーを動かして、
スループットの速さと信頼性をお客様に会場で見せて
その実力を誇っていました。
(今から思うと信じられない時代でしたね・・・)

当然、海外の装置メーカーも装置を持参して参戦しておりました。装置を動かす為に来日した外国人エンジニアは、展示会が終了すると夜な夜なバブリーな六本木を徘徊してました。80年代の半導体業界はそんな時代でしたね・・・
会場が幕張に移ったのは1990年です。その後、時代はバブルが崩壊してゆきます。
あれから約30年・・・2014年からは、会場が再び都内に戻りました。
外国人エンジニアが六本木で騒いでいた時代がなつかしいですね。。

以上、最後までご覧いただきありがとうございました。
皆様、よいお年をお迎えください。



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